三宅雪子議員の自殺と生前掲げていた福祉いう理想

かとさよ

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コラム
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 故人の死を悲しみ、弔いの言葉を申し上げます

 年始明け6日だろうか。三宅雪子元議員の訃報が耳に入った。ちょうどWordPressに引っ越ししている期間と重なったため記事には出来なかった。Twitterにおいて言及するだけに留めておいたのだが、タイムラインを見ているとやはりこのように改めて記事にすべきだという考えに至ったわけである。

 まず前提として私自身、自殺については個人的にはフラットな考えを持っている。老衰か病気か、死を目前とした余命幾ばくかの方への尊厳死、社会的に何かしらを訴えるためのハンガーストライキなど、自己決定という意味合いにおいて死の選択は自己決定として尊重されるべきである。自分の死が周りに何をもたらすのかを考えての行動だと思われる。

 しかしつらい状況に追いやられての自殺や何かを失い喪失感に苛まれての自殺に対しては否定的だ。果たして自己決定と言えるのだろうか。正常という言葉はあまり使いたくはないが、普段のその方の思想に基づいた行動であったのか。

 自殺という行為をした人物に否定的なのではなく、自殺を選択せざるをえなかった社会に対して否定的なのだ。そしてこのような不条理を減らすことが福祉という理念であると考えている。


 社会がもう少し支援が出来たら、もしかしたら違ったのではないだろうか。自殺の報が飛び交うたびに、解決しなければいけない課題に溢れていると実感する。もし気がつけば救えたのではないだろうかと、とてもじゃないが傲慢な考えに至ることも度々ある。千手観音のように差し伸べることができる幾本もの手を持っていたらできるだろう。しかし残念ながら全知全能などではまったくない非力な人に過ぎず、人であるがゆえにエゴイズムなのだ。

 映画を観る時間があれば支援をすればいい。

 その通りだ。

 衣類を購入せずに募金をすればいい。

 正論である。

  何かしら困っている方の支援をするためにどこまでリソースを割けられるのか。他人に手を貸すという自己満足の行為だとしてもこのような自問自責に陥るのだ。

 この車を売れば、このバッチを売ればまだ何人かのユダヤ人を救えた。私にもっと財産があれば、もっと力があれば、もっともっとたくさんの人たちを救えたのだ。
  

シンドラーのリスト


 シンドラーの言葉が胸に突き刺さる。


 だからこそその自問自責の苦しみを逃れるために、社会福祉という学問を学んだ。理念を掲げて仕事にすることで、自分を律することができるのではないかと。今現在は直接的な支援の場から離れ、誰もが受け入れられる場を作ろうと必死でもがいている。

 さて、話を戻そう。


 私自身あまり頭がよろしくないので物事を簡単に捉えている。人間は一人で生きるには弱すぎるからこそ社会を構築した。しかし社会では生きにくいからこそ福祉という、社会として助け合う概念が生まれたわけである。

 迷惑をかけるなではないのだ。迷惑は互いに掛け合い、互いに迷惑を許し合え。それほど社会は生きにくく出来上がっている。

 三宅雪子元議員は福祉を志し政治の世界に入ったと述べていた。


 理念に福祉を掲げていたのである。ならばなぜ周りに助けを求めなかったのだろうか。今出ている情報からではあるが、もし福祉を理念に掲げているのなら尚の事、死を選ばずに誰かに救いを求めなければならなかった。救いを求めれば誰であれ受け入れられる福祉を、社会に見せつけなければならなかったのだ。


 もしかすれば、SOSのサインを出していたのかもしれない。 充足してはいなかったのだろうが支援してくれている人はいたであろう。どれだけみすぼらしくとも、 なぜ踏みとどまり、自らの命を第一に考える行動が取れなかったのか。人間の弱さ・脆さを肯定できなかったのか。福祉を訴えているはずの彼女の行動は 「福祉の支援対象と似た状況に陥ったら死を選んでしまう」という 間接的に支援対象への否定をも孕んでしまう。

 嫌がらせを受けていた、自分が仕出かした自業自得であるの決着のしようがない話題は置いておく。もし万が一嫌がらせなるものを受けたというのが事実であれば粛々と司法に判断を委ねるべきである。また自分が撒いたとならば司法の場にてまた判断されればいいだろう。また彼女が自身で告白していた障害について、それが何によってもたらされたものか、何をもたらしたのかについての判断は控えておきたい。

 ここで問いたいのは、三宅氏が掲げていたのは福祉という自殺まで追い込まれる不条理な状況下におかれた方をも救う理念であり、学問であるということだ。三宅氏本人はそれすら忘れるほど正常な判断ができないほど追い詰められた状態であったのだろう。

 私は『三宅雪子氏が掲げていた福祉という理念』を踏みつけにしたくはない。三宅雪子氏が一番叶えたかったことであり、踏みつけてしまうのは最大の侮辱であろう。それを避けて通れば、私は彼女の自殺を否定することとなる。

 「あなたは最後に自己否定してしまった」、と。

 万が一、私自身が何かしら追い詰められたことで自殺という選択をしたのであれば、同じ様に否定して欲しいと切に願う。

 Twitterのタイムラインでちょくちょく彼女の自死に報いるとの発言を目にしている。だが考えて欲しい。真の意味で彼女の自死に報いることは、果たして何者かへの報復なのか、それとも生前彼女が掲げていた理念を、夢を叶えることなのか。激情にかられることで大切なものを踏みつけてはいないだろうか。

 できることならば私にこのように付け加えさせてほしい。


「あなたが生前に撒いた種は、芽生え、実をつけるに至った」、と。

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追記

 自殺という報道はあるが自殺断定という報道はないらしい。


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