リベラルはゴーンを非難できるか?――コンセントさんの主張への注釈

政治用語bot管理人

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コラム
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『からあげ速報』読者のみなさん!こんにちは!皆さんは「リベラリスト」ですか?

もしこの問いに「イエス!」と答えるならば、次の問いにもお答えください。

「あなたはカルロス・ゴーンを善だと思いますか?悪だと思いますか?」

…あなたが本当にリベラリストであるならば、この問いに答えるべきではない。

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「私たちリベラル左派は」?

かなり前だが、『からあげ速報』にて、コンセントさんの筆名でこのような記事が出た。

詳しくは当該記事を自分で読んでもらいたいのだが、差しあたり「まとめ」の部分だけを引用しよう。

カルロス・ゴーン氏の密出国を擁護してはいけません。しかし日本の司法制度や死刑制度に問題があることも確かです。この二つを踏まえ、私達リベラル左派は「司法に問題があったから国外逃亡 は許される」と論じるのではなく、「それなら司法を民主的に変えよう!変革しよう!」と論じるべきではないでしょうか。

この主張は、おおむね妥当であると考えて良い。ただ、一箇所だけ大きな引っかかりがある。それは、「私たちリベラル左派は」という主語である。「私たち」と言うからにして、コンセントさんは自らを「リベラル左派」として位置づけていることは間違いない。そして、これ自体には特に問題はない。

しかし、もしコンセントさん、もしくはこの記事の読者達が「リベラル左派」を「リベラリスト左派」と同義として捉えているのであれば、それは大きな問題である。なぜなら、コンセントさんの論考は「リベラリスト」として踏み込んではならない領域に、踏み込んでしまっているからだ。

今回の記事は、その点について「注釈」をつけることを目的としている。

リベラリズムの「思考枠組み」

「リベラリスト」として踏み込んではならない領域とは何か。それは「道徳」や「倫理」の領域である。これはリベラリズムの根本的な「思考枠組み」によって設定されている。しかし、リベラリストとは、リベラリズム(自由主義)に傾倒する者のことを指すこと。リベラリズムとは、人々のある種の「自由」を何よりも重視する思想潮流を指すこと。これらは広く認知されている一方で、リベラリズム――より厳密には、ジョン・ロールズ以降現在まで最有力な「手続き主義的リベラリズム」(井上 2001: 57)――の「思考枠組み」については、あまり知らない人が多いように思われる。

この「思考枠組み」とは、かつてロールズが『正義論』で主張した「善に対する正(正義)の優越」である。この言葉は誤解を招きやすいとも言われているが(児玉 2013 :50)、あえて平易に言えば、「異なる考え方をする人々みんなが、自らが『善い』と思う生き方をできるようにするためには、みんながルールに従わなければならない。ただし、そのルールは、どんな生き方が『善い』かには関係のない『正しい』ルールでなければならない」といったところである。まだわかりにくい気がするのでもう少し説明しよう。

まず、「善い」生き方について。再確認だが、リベラリズムとは、「自由」を実現しようとする思想潮流であり、その中心的な問いは「人々が自由で平等に共存するにはどうすればいいか」(Brennan and Tomasi 2012: 115)である。リベラリズムにとって、「自由」とは、最も広い定義であれば、「自己決定の自由」または「選択の自由」、即ち「自分で自分のことを決められること」である。自分がどんな仕事につこうか、どんな勉強をしようか、今日はどこに行こうか、明日は何を食べようか、こういったことを自分自身で考え、決めることができる。それが「自由」である。さらに重要なのは、このような「自由」を行使している時、大抵の場合は「自分は何を善いと考えているか、自分は何をするべきか」という、道徳的・倫理的な判断基準に従っているということである。

次に「正しい」ルールについてである。リベラリズムは、「自由」を実現しようとするが故に、全ての人々が、「善い」生き方を各々で考え、決定できるようにしようと考える。ただ「みんな好きにして良いよ」と言うだけでは十分ではない。この世の中には様々な人々がいるため、自分が「善い」生き方をするために、他人の「善い」生き方を犠牲にしてしまうことがあるからだ。例えば自分が「善い」生き方をするためには一刻も早く病床の父親の元に行かなければならないとして、バイクに飛び乗りブレーキをかけずに最高速度で突っ走れば、おそらく誰かを轢き殺し、「善い」生き方が一つ犠牲になるだろう。我々全てが「善い」生き方を追求するならば、制限速度や信号の設置を定めた道路交通法というルールを作り、少しの我慢をしなければならない。

しかし、このルールは「善い」生き方を決めるルールであってはならない。例えば「今一緒に住んでいる足の悪い母親の側にいてあげる方が『善い』生き方なのだから、父親の元に行ってはならない」というルールではだめなのだ。何が「善い」生き方であるかを自分で決めることが「自由」なのだから、他の誰か、あるいは政府の考えた「善い」生き方を押しつけるようなことは、あってはならない。たとえそれが他の全ての人にとっての「善い」生き方に繋がるとしてもである。「全体の善のために、個々人の善が犠牲になってはならない」(Sandel 1984: 82)のだ。

そのため、「特定の『善い』生き方を前提としない諸権利を示す正義の原理」(Sandel 1984: 82)が必要となる。これこそが「正しい」ルールである。もし誰かの「善い」生き方が、他人の「善い」生き方と両立しない状況が生じたならば、ルールによって権利を与えられている者が優先される。交差点においては、通常、信号が青である方が優先される。しかしこれはその人の「善い」生き方だけを優先するためではない。少し待てば信号が変わり、もう一方の「善い」生き方が優先されることになるからだ。信号は、あらゆる「善い」生き方も前提としない、平等で中立的な「正しい」ルールの一例である。

これが、リベラリズムの「思考枠組み」となっている「善に対する正(正義)の優越」である。リベラリストは、ひたすら「正(正義)とは何か」「『正しい』ルールはどうすれば実現できるのか」を考え続ける。一方で、「善い」生き方については、語らないし、語ってはいけないと考える。「善い」生き方を決めるルールを作ると、「自由」が侵害されるからだ。リベラリストは、道徳や倫理に関与しないし、してはならない。

コンセントさんの主張への注釈

ここで、「リベラル左派」を自認するコンセントさんの主張に戻ろう。彼/彼女は、「(ゴーンの)違法行為を擁護してはいけない」(コンセントさん 2020)と述べるが、その際の論拠として、青識亜論の次の指摘を引用する。

「日本の刑事司法が信用できないので保釈中に逃亡した」が倫理的に妥当だとするならば、「日本の刑事司法が信用できないので裁判官を買収して無罪にしてもらった」みたいな事案も肯定されると思うのですが、その倫理観、リベラルのみなさんが大嫌いな「上級国民」や「体制」に利するだけですよね。

(青識亜論 ※コンセントさん 2020から孫引き)

注目すべきは、この引用内の「『日本の刑事司法が信用できないので保釈中に逃亡した』が倫理的に妥当だとするならば、」の部分である。ここまで読んできた読者なら既におわかりであろう。「倫理的に妥当かどうか」は、「リベラリスト」の答えるべき問いではない。むしろ、「自由」を防衛し、リベラリズムがリベラリズムであるためには、決して問うてはならない問いなのだ。それでもあえて「リベラリスト」がこの指摘に答えるならば、次のように言うであろう。

『ゴーンが逃げたこと』、もしくは『裁判官を買収すること』これらは共に日本の法秩序への信頼を揺るがし、正義を破壊しかねない大問題である。ゴーンは日本で裁判を受け、買収に関わった者は処罰されなければならない。しかしそれは彼/彼女達が倫理的に悪だから『ではない』。日本の法秩序への信頼を取り戻し、ゴーンを含めた我々全員に正義をもたらすためである。

ゴーンを「倫理の領域」で非難すること。即ち「善」の領域で非難すること。この問題性に無頓着なコンセントさんは「リベラル左派」であって、「リベラリスト左派」ではない。これが、俺が今回述べたかった「注釈」である。「自由主義『的』であること」と「自由主義『者』であること」は、異なるのだ。

終わりに

ゴーンが善か悪か?知ったことか!我々が語るべきはルールなのだ!自由はルールによって守られるのだから!

個人の行為を問題にするのではなく、ルールを問題にする。これがリベラリズムである。コンセントさんも、このような「思考枠組み」を持っており、その主張にもかなりの妥当性がある。しかし、彼/彼女を「リベラリスト」として見たならば、完全というわけではない。それ故に、今回「注釈」をつけることとした。

俺自身は「リベラル」も「リベラリスト」も自認してはいない。Twitterなどで反論が来たら読み、参考にするが、おそらく返事は書かない。「真面目な人」や「誠実な人」も自認してはいないのだ。

補足

①今回述べたリベラリズムの「善に対する正義の優越」には、主にコミュニタリアニズム(共同体主義)によって、既に多くの批判が投げかけられている。また、ここから派生した「公私二元論」という観念も、これまでフェミニズムなどから多くの非難を受けてきた(例えば岡野 2012)。この「思考枠組み」は、リベラリズムにとっては根本的であるため、擁護しようとする作業が行われている(一例は井上 2001で紹介されているリチャード・ローティのもの)。けれども、他の立場にとってはむしろ非難の対象となることに、注意を促しておきたい。

②なお、「リベラリズム」の一潮流として最近力をつけつつある「リベラル・ナショナリズム」というものもある。この思想潮流の内実は多様であるが、「コミュニタリアンによるリベラリズム批判に対する、リベラルの『妥協案』という性格を持つ」(久保田 2015)のは確かであろう。それ故に、その中にはリベラリズムでありながら、ある程度には「『善き』生き方」のルールを肯定する立場が含まれており、注目すべきである。(久保田 2015が簡潔にまとめている)。

お礼:遅筆ゆえ、かなり時期を逸してから書き上げることになった。このような原稿の掲載を受け付けてくださった『からあげ速報』に感謝する。

参照文献

岡野八代(2012)『フェミニズムの政治学:ケアの倫理をグローバル社会へ』みすず書房。
久保田浩平(2015)「『リベラル・ナショナリズム』を超えて」『倫理学研究』第45巻。
コンセントさん(2020.1.22)「加筆あり 【レスポンス】ゴーンを巡る騒動について、からあげ速報内での議論に対するレスポンス」『からあげ速報』(https://withktsy.com/archives/970 最終閲覧2020年1月24日)
児玉聡(2013)「功利主義批判としての「善に対する正の優先」の検討」『社會科學研究』第64巻2号。
井上彰(2001)「リベラリズム擁護の新地平:リチャード・ローティの政治思想」『政治思想研究』第1号。
Sandel, Michael(1983) “The Procedural Republic and the Unencumbered Self,” Political Theory, Vol.12, No.1.


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コメント

  1. 匿名 より:

    リベラルの人って言われるけどリベラルの人じゃないんだな自分は、と気づかされました。今度から否定しなきゃ。自由を守るための法整備は訴えるけれど、現状のルールは守ったうえで手順を踏んでほしいから、リベラリストじゃない私はカルロスゴーンにダメじゃんって言います

  2. 匿名 より:

    あえてリベラリストとして答えるなら、てことで言った部分への話やから、この記事の趣旨云々はまた違うぞ

  3. 匿名 より:

    そもそも検察がルールを破り自由を束縛しようとし、法秩序を破壊した為にゴーンはルールを破り自由を手にした、て話で、それでもリベラリストはゴーンはルール破ったから良くないっていうんやろか
    自由主義者なのに不当に自由を侵すことへの防衛もダメなんやろか

    • 匿名 より:

      リベラリストはゴーンを擁護しないけど、非難もしないってのがこの記事の趣旨だぞ。
      あえて「何が悪いか」といえば、検察の暴走を許し、ゴーンが逃げるのを許した法制度。

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