ブログ「からあげ速報」内
記事題:『表現の自由』を訴える議員が批判言論の規制を示唆!?表現者(制作者)の縄張りと踏み越える批判

を読了しました。以下私の感想(表現の自由と批判言論が主題となります)を記述しますが、
前提として「公序良俗に反し、差別的、暴力的表現」に関しては「放置することで表現の自由自体を失わせる危険のあるもの」と危惧し反対する立場であることを記しておきます。
1.「表現物を批判することを規制する表現の自由推進議員の矛盾」
おぎの大田区議会議員による「法や条例で悪質なクレーマーに対する対策を考えたり、行政の姿勢を正したり」という発言自体はそこまで咎めるものではないと考えます。(文脈を読むとアニメ批判批判であろうと推測されますが)学校、病院、あらゆる業界においてモンスタークレーマーは社会問題化しているのは周知の通りですし、まだ法対策は出来ていません。
ですが「特定表現物への批判言論自体を取り締まる」ような方策だとした場合は論外です。違憲は明白であり法制定自体が不可能でしょう。
からあげ速報の「表現を潰すための条例を提案するという、表現の自由を奪う提案」という表現には異論なく賛成です。
2.「批判に対しての批判の声を少しは控えるべきなのか」
例としてムカデ人間のCMについての抗議をあげ、「放送局の伸びしろ、今後の可能性となる」ので「批判は表現者の糧であり、その批判に対してクレーマーだの騒ぎ立てることは、その表現物を作り出した者にのみ許される行為である。表現の自由を守ろうとする方々は、批判に対しての批判の声を少しは控えるべきだ」という部分には違和感があります。
憲法21条によって
「(批判)言論に対しての(批判)言論の自由を制限、もしくは禁じるべき」ではないから
です。
制作者ではない者が批判することも当然言論の自由であります。
これを以って結論になり、これ以上の理由は補足になりこそすれ、必要ありません。
3.「批判言論に対しての批判の実例」
2で記述した通り制作者以外が作品について批評することも、「批評を批評する」ことも自由ですし、現実今こうしている間にも健全に行われています。
例をあげるなら「映画評論批評」です。
twitterでも皆様よくご存知でしょう町山智浩氏は著名な映画評論家ですが、彼の評論自体が既に評論対象となり批判・反論が巻き起こります。
ジャズ音楽界を舞台とした映画「セッション」の評論を通してジャズミュージシャン 菊地成孔 氏から激しく批判を浴びました(話の道筋が逸れるので論争の仔細は略しますが)。映画評論の専門家と、音楽家の「映画内の音楽と音楽界の描写」への意見のぶつかり合いで、お互いの名誉がかかった激しい論争でしたが、
「町山氏、菊池氏、双方」映画制作者ではありません。
からあげ速報記事内の論旨では、「菊池氏は町山氏への批判の声を少し控えるべきだ」と置き換えが可能ですが、控えるべきとは思いません。
理由は当然2で記述した通りですし、上記の論争を通して私は映画、音楽鑑賞への見識が深まり、感謝もしています。
4「制作者の糧を奪うのか」
批判が制作者の糧になるから批判の声を封じるな、という意見には一見頷けるのですが、矛盾が発生しています。
「批判は表現者の糧であり、その批判に対してクレーマーだの騒ぎ立てることは、その表現物を作り出した者にのみ許される行為である。」というならば、
「批判が表現者の糧になるのかどうかを判断できる」のも表現者のみ、になるでしょう。
表現者が糧と捉えるか、クレームと捉えるかを表現者以外が決め付けてよいのでしょうか。
ですので、憲法以前の問題として前提に不備があると考えます。
ただ、「Aという批判は表現者の糧になる」も「Aという批判はただのクレームだ」もどちらも意見として表明する自由はあります。
それが表現の自由です。
5「私の考えをざっくりまとめると」
・おぎの議員が「批判言論を法で取り締まろうとするなら」大反対
・批判に対しての批判は憲法において自由を保障される
・批判に対しての批判も有益足りえる
・批判が糧となるかクレームとなるかを議論するのも自由
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コメント
人は成長する きっと
https://twitter.com/dappi2019/status/1229588541199409152?s=20
批判を大事にしてあげようよ
ごく普通の正論しか書いてないけど、
そりゃこういう書き方にもなるよな。
基本的人権なんだし。