表現の自由論の落とし穴~公的空間における他者とのコンセンサス

坂口修治

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コラム
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 Twitterを私がまってーぃという名前によってはじめてから、一年ほどたった。

 もともとはアンチナショナリズムとして、ネット上の右翼といわれるひとたちへの対抗的言説を構築する必要があるのだろうと思って始めたものだったし、具体的には日本国紀を学説として批判する目的があったためであった。

 しかし、それ以外にもおぞましい言説が展開されていることに目を奪われた。表現の自由は他者を傷つけようが、どういったものであれ保障されるべきという論者たちの、奇妙なほどの記号論への無理解と無知が付きまとっていたことだ。

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記号論とは

記号論はおおまかにいって、ソシュールの言語学から派生し、1960年代にフランスのバルトらによって発展した、記号の意味の生成に関するものである。わかりやすくいえば、記号とはどのように意味をもたらされているのか、という問いへの回答であった。

ここで、簡単に記号論を簡単に紹介するが、きちんと学びたいのであれば以下の著作が興味深いだろう。

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をおすすめしておく。もっと深く本格的に、というのであれば、ロラン・バルトの『モードの体系』

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をぜひ手に取ってほしい。

また、この『モードの体系』を翻訳した佐藤信夫は、日本における記号論研究の先駆者である。佐藤信夫の『レトリック認識』『レトリック感覚』は知的好奇心をくすぐる良著で読みやすい。

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では、記号とは何か?

まず記号とは英訳すればsignと出てくる。フランス語でシーニュというが、シーニュシニフィアン(意味するもの)シニフィエ(意味されるものの内容)からなる、意味を伝える存在だということだ。

何のことだと思って結構である。

たとえば “→” について考えよう。→は記号である(シーニュ)。では、→には→という形(シニフィアン)と“矢印の向いている方向にいけ”(シニフィエというものから成り立つという点にある。

また記号は言語も含まれる。

たとえば、記号として、「葉」という記号を考えると、葉という漢字の形と「は、ば、よう」と読むシニフィアンがあり、「植物に生える、緑色~黄色のもの」というシニフィエがあることがわかる。つまり、「葉」とはその両方を合わせて記号として存在するのである。

文脈によって意味の変わるものが記号

さて、あくまでもこれは駆け足なのでささっと先へといこう。

記号が理解できたとして、記号の意味は文脈によって成り立つものであり、それには意味は読み手の欲望という文脈によって生成されるシニフィエという問題を抱えるということを解説してみよう。

例えば「宇崎」という名前が出てきたとする。

この宇崎として、何を思い浮かべるだろうか?ああ、人の苗字だな、というものや、地名かな?なんて思う人もいるだろう、場合によっては、ああ、宇崎竜童のことでは、と思うかもしれない。

そう、これが記号の意味は文脈によって成り立つというものの例である。

記号における言葉の意味はその記号だけでは限定されないのだ。

つまり、そのあとに山口百恵についての記述がでてきたら、宇崎って宇崎竜童なんだぁ、と意味がつけられる。一方、山口百恵を知らないひとには、宇崎は他の宇崎であり続ける。自分の身近な知っている「宇崎」を意味付けに用いたり、もしくは忘却して関心すらなくなったりするかもしれず、そのような人にとって「宇崎という人」でしかない。

ところが、「宇崎」という言葉が「献血ポスターのキャラクター」といった瞬間、ある人たちには「宇崎」という意味がクリティカルなアイコンとして想像され始める。

また、「宇崎ちゃんはうざい」という言葉のなかでは、より具体的に特定のひとたちには、意味が形作られる。

 そう、コメディ漫画での『宇崎ちゃんは遊びたい』のキャラクターだよねと。つまり、言語における意味の生成は読み手の欲望(関心)によっても意味づけられるものなのだ。 

表現の自由は線引きができないからの配慮である。

Twitterにて、初めて知ったのが、『青識亜論』さんという人だ。

表現の自由に関するセクシュアリティ問題を論じる論客だが、表現の自由の許容される明確な表現が線引きができない以上、どのような表現であれ自由であるべき、という論が特徴的だった。

しかし、この論に決定的に欠けている視点がある。

それは、文脈による意味生成であるという視点である。

例を出そう。女性、および男性性器の描写は、禁止されているのだろうか?

厳密にいえば、禁止されていない。なぜならば、その描写は「誰が」「何のため」「どこで」表現されるかによって判断されるものだからだ。

より具体的にいうと、医学的な専門書にはしっかりと描写もされており、また臨床としての専門書では、「患部の症状」として「写真」として数多く乗せられているのだ。

表現に関する文学理論の基礎である、意味生成論や記号論的な視点を持てない、もしくは知らないのが不思議でたまらない。青識亜論さんはどうやら、絵など特定の記号の意味生成に対して文脈を抜きにして、単語的意味を当て嵌められるという思考で終わるようにとれる。

この文脈で「宇崎ちゃん」の献血ポスターのイシューを眺めてみる。

すると、「宇崎ちゃん」の表現は、性的ではないしそれは表現の自由でもあるから、抗議はまったく無意味だというスタンスだったと思う。

献血のために役立つ、漫画でもよく知られた、キャラクターであるひとを使うことになんらおかしいことはない、というものだ。

しかし、一方で「宇崎ちゃん」という存在を知らないものとっては、どう映るのか。まず、存在すら知らなかった私にとっては、「うわ、いまこんなおっぱいを強調したのが受けるのか」という印象でしかなく、まぁそれも一つの方法であるよねという第一印象でしかなかった。ただ、これは「40代男性ヘテロセクシュアリティ」としての「意味生成である」ということに留意しておきたい。

では、実際には一部の女性たちから、「違和感がある」「性的に過度な表現である」という声が上がったのだが、それは不当なものなのだろうか?そうではなく、抗議をするひとたちにも「文脈」が存在することを想像しなければならないのだ。

どういった経験をし、なぜそれに対して異議の申し立てをしているのかへの想像である。その他者がなぜこれほどに嫌悪しているのかという想像である。想像することによって、はじめて「配慮」の余地が出てくるのである。

配慮とは交渉されるもので作られる公的空間でのコンセンサスである。

このように、宇崎ちゃんという存在を通じて、意味の生成について考えてきたが、記号論的視点の重要性について理解していただけたのではないだろうか。

さらにこの問題を語るうえで、公的空間ということも意識しておかねばならない。公的空間とは「誰も」が「アクセスできる」場であり、同時に逆説的だが「自らの意志によって回避が原則不可能な空間」でもあること、ということを付け加えよう。

公的空間について、述べるとまた一仕事なので、関心のある方々はおのおので調べてもらいたい。


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(N国党や、○ん○ん氏などから訴訟をちらつかされているため)

・まとめ

意味される内容やニュアンスは、拡大され、論じられるものとして存在する。とりわけ、法律的定義として明確な線引きが成されないものや(じつのところ法でも明確に線引きをしていない。たとえば、「みだらに」には具体的数値が存在しない)

数学的約束事としての厳しい限定がなされる“言語”と違うものが、文化のなかで表現される記号なのだから、このように特定の表現を巡って交渉され、適当性を論じ合うものであり、おとしどころは互いの論点の違いと権利侵害の状態、誰が誰をという権力構造まで思考がいかないと、終わってしまう議論。

せめぎあうものだ、という前提理解がなければ、どちらも相手の表現に不寛容に陥ってしまう。つまり

『原則禁止である』

『原則自由である』

『法で線引きをする必要がある』

などなど。表現の自由論が自らをしばる落とし穴に落ちているのだ。

しかし、みてきたように、それは不可能であるのだ。

なぜなら「誰が」「どこで」「なんのため」といった文脈を無視してしまえば、意味そのものが生成しないからであり、配慮とは他者と接する公的空間においては、禁欲的である必要だと意識することである。

特定の立場からの抗議に対して、耳を傾けその意見について考えてみることであろう。そして、その他者からの声を圧殺することはもちろんあってはならないのだ。

法規の世界ではないもの、それが芸術を巡る公的な空間での表現を考えるうえで重要な出発点である。くりかえすが、それは「誰が」「どこで」「だれに対して」の表現なのかを意識すること。これこそが公共の福祉の観点なのだが。


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コメント

  1. 名無しの名無し より:

    コメント全部消えてて草
    なんこれ

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